城塞都市チェスキー・クルムロフ のバックアップの現在との差分(No.1)

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世界遺産「チェスキー・クルムロフ歴史地区」の主要構成施設でヨーロッパ100名城の1つにも選ばれている城塞都市である。クルマウとも。
なお「チェスキー」は「チェコの」意味で、同じチェコにあるモラヴスキー(モラヴィアの)・クルムロフとの区別のために付けられている。
始まりは1250年、当時の領主クルムロフ家がヴルタヴァ(モルダウ)川の要所であるこの地に城を築いたことによる。
現在、城のメインシンボルであるキャッスルタワーはこの時代に建てられたものである。
1302年、クルムロフ家が断絶するとボヘミア王ヴァーツラフ2世はクルムロフ家の親戚であったロジュンベルク家に継がせ居城とし発展していった。
ロジュンベルク家は、ボヘミア王の摂政を務めルクセンブルク家のヨハンがボヘミア王となる際大いに奮闘した。

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1420年から始まったフス戦争の時、ロジュンベルク家は最初カトリック側についたため城も攻撃を受けたが、
フス派に転向しフス派聖杯派の筆頭であったヴァルテンブルク家当主が死去するとその筆頭となったが、最終的にはカトリックに戻りさらに繁栄することとなる。
これはカトリックから転向する事でカトリック側から領地や財宝を奪い、さらにカトリックに戻る事で新興側の領地や財宝を奪ったためである。
これらの行為は貴族間で大小の違いはあったものの度々行われておりロジュンベルク家に限ったことではないが、
この戦争のお陰でロジュンベルク家がボヘミア筆頭貴族になったことは否定できず、また城も増築され、チェコでは[[プラハ城]]に続いて2番目の規模にもなった。
この頃から城内でクマを飼うようになったと云われている。ロジュンベルク家の紋章にクマが入っており、城の守り神のためだという。
だが、1592年クルムロフ城にルネッサンス様式を取り入れ大きく拡張したウィリアムが子供を残さずに死去すると、
跡を継いだ弟のヴォックは司祭だったので結婚するため還俗したものの、53歳での晩婚で子供が出来ず、
諦めたヴォックは1602年城をボヘミア王・神聖ローマ皇帝のルドルフ2世に城を売却し ロジュンベルク家は去る事となった。

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1618年、第二次プラハ窓外投擲事件から始まった三十年戦争では主が居なかった城は、同年反乱軍に占領されるも1620年皇帝軍によって奪還された。
ボヘミア地域の戦争が終結すると、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の宮中顧問官長で財政・政治・軍事面を助けた、
オーストリア貴族のエッケンベルク家のハンスに、クルムロフ城及びロジュンベルク家の遺産を全て相続させ、
1628年には南ボヘミアの抑えとして新たに建国されたクルムロフ公国の公主となり、クルムロフはその首都となった。
だが、1645年ヤンカウの戦いでスウェーデン軍に大敗北した帝国軍は、プラハからウィーンへ逃亡しクルムロフも占領されてしまった。
1648年、皇帝側が大幅に譲歩し三十年戦争が終結するとようやく首都機能が復活し、新たに宮殿やバロック様式も加わった。
1702年頃から城内で飼われていたクマを堀に移した。これは現在でも続いている。1719年、当主の病死が相次ぎエッケンベルク家は断絶してしまった。

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跡を継いだのがオーストリア貴族のシュバンベルク家でクルムロフ公も継ぎ1744年、ヨセフ・アダムが後期バロック様式を加えられたのが最後の増築であった。
その後の代は[[ウィーン]]に活動の拠点が移りクルムロフは居城とされなかったものの、1900年に修復作業が行われ一般に公開されるようになった。
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、クルムロフ公国もチェコスロバキアに吸収されると1920年にチェスキー・クルムロフとなった。
1938年、ナチスがチェコスロバキア占領の一環として、クルムロフの戦いが起こり城壁や城門が砲撃を受けた。
翌年、チェコスロバキアが併合されるとシュバンベルク家の財産没収命令を出し、城もナチスに占領されると一家はイタリアに亡命した。
戦後、一家は復活したチェコスロバキア政府に対しナチスに没収された城を含む財産の返還を求めたが、
政府は一家だけを対象とした「シュバンベルク法」を成立させ財産を一切返還せず城も国有化した。
だが、共産主義により城の価値は認められず、堀も埋められ城壁も撤去され保護も修復もされず酷く傷んだが、
1968年のプラハの春・1989年ビロード革命により、ようやくその価値が認められると修復が進み、
1992年に世界遺産「チェスキー・クルムロフ歴史地区」に登録され、2010年にヨーロッパ100名城の1つに選ばれた。

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(著)シルレル (訳)渡辺 格司 『三十年戦史 第一部』 岩波出版 1943年
(著)シルレル (訳)渡辺 格司 『三十年戦史 第二部』 岩波出版 1944年
菊池 良生 『戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争』 講談社 1995年
百瀬 宏・熊野 聰・村井 誠人 『新版世界各国史21 北欧史』 山川出版社 1998年
薩摩 秀登 『プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革』 現代書館 1998年
(編)南塚 信吾 『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 山川出版社 1999年 
菊池 良生 『神聖ローマ帝国』 講談社 2003年
沖島 博美・武田 和秀・藤塚 晴夫 『旅名人ブックス45 プラハ・チェコ 中世の面影を残す中欧の町々』 日経BP 2005年
増田 幸弘 『フィギュール彩 37 黒いチェコ』 彩流社 2015年
岩崎 周一 『ハプスブルク帝国』 講談社 2017年
加藤雅彦  『図説 ハプスブルク帝国』 河出書房新社 2018年
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チェスキー・クルムロフ公式サイト:http://www.ckrumlov.info/docs/en/kaktualita.xml
ユネスコ、世界遺産、チェスキー・クルムロフ歴史地区:http://whc.unesco.org/en/list/617/

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|所在地|チェコ、南ボヘミア州、チェスキー・クルムロフ郡&br;チェスキー・クルムロフ|
|現存状態|現存|
|城郭構造|平山城|

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