大西城 のバックアップ差分(No.3)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 大西城(だいさいじょう)は雲南市の旧加茂町の東にある標高195メートルの高麻山に築かれた山城で、尼子十旗の一つである。 山頂の主郭を中心に尾根筋を堀で遮断する等の防御線がしかれている。また、枡形の構造等から毛利氏時代に改修が行われたことが示唆されており、尼子氏と毛利氏の築城術の違いが現れている。 築城時期は比較的新しく、天文年間に鞍掛久光によって築城されたとされているが、それに近い天文12年(1543年)には大西高由が城主となっており、初期の来歴についてはあまり判然としていないのが実情である。 城主となった大西氏は、近隣の立原氏と同族であり宇多源氏佐々木氏流と言われていたが、現在では清和源氏満快流飯沼氏の流れであることが主説となりつつある。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 大西高由は大内氏や毛利氏の出雲侵攻に対し、いずれも尼子方として[[月山富田城]]に入り防衛の一翼を担うなど、尼子氏の有力家臣として活躍した。 そして、大西城も尼子方拠点であったと思われるが、毛利氏の出雲侵攻の中それほど遅くない時期には開城したものと思われる。 その後の来歴ははっきりしないが、尼子再興軍との戦いのあった永禄12年〜元亀2年(1569~1571年)の間に毛利氏によって改修が行われたものと見られる。 #br 大西高由は尼子義久が毛利氏に降ると、彼に付き従って安芸へと移ったが、訳あって義久によって手討ちにされたという。 高由の乱心が理由とも言うが、毛利氏の史料によると、尼子氏伝来の刀の所在を巡って義久と高由の間にトラブルが生じたことが原因であるという。 その後は高由の四男が跡を継ぎ、毛利氏の客分となった義久に仕え、子孫も佐佐木に姓を改めた義久の子孫に仕える形で長州藩士として続いた。 その後は高由の四男が跡を継ぎ、毛利氏の客分となった義久に仕え、子孫も佐佐木に姓を改めた尼子義久の名跡を伝える家に仕える形で長州藩士として続いた。 #br 大西城跡は登山道などが整備されているが、郭をなした平削地が見られる他は特にめぼしい遺構の確認は難しいようである。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|島根県雲南市加茂町大西| |現存状態|郭| |城郭構造|山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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