九戸城 のバックアップ差分(No.2)

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九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市内にあった日本の城(平山城)。昭和10年(1935年)に国の史跡に指定されている。

1500年ごろ築城。南部氏一族の九戸氏が居城とした。
明応年間の1500年ごろ九戸光政によって築城。三戸南部氏や八戸南部氏とともに南部氏一族である九戸氏が居城とした。
九戸氏の最後の当主である政実は、豊臣秀吉の奥州支配に最後まで抗った大名として一部で有名である。
南部宗家の跡継ぎ問題を発端とし、南部家当主が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は5000人の兵をもって九戸城に籠城。
6万の豊臣軍に包囲され、家臣や婦女子の助命を条件に開城した…
南部宗家の跡継ぎ問題を発端とし、三戸南部の信直と九戸南部の政実が対立した。南部宗家は信直が相続し、天正18年(1590年)に信直は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣したため南部領を安堵され、名実ともに南部家当主となった。
これを不服とした政実は天正19年(1591年)に挙兵、信直が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は、前年の奥州仕置を不服とする諸将をも引き込んだ大乱を起こすこととなった。政実5000人の兵をもって九戸城に籠城。
同時に葛西・大崎一揆も再発し、秀吉は奥州再仕置を命じ、豊臣秀次を総大将とする大軍を送り込んだ。九戸城は6万の豊臣軍に包囲されたが、馬淵川・白鳥川・猫渕川に囲まれ一部は断崖絶壁となった九戸城は天然の要害で、容易には落ちなかった。
そこで再仕置軍は九戸氏の菩提寺である長興寺の住職に説得を依頼し、政実は家臣や婦女子の助命を条件に開城した…
はずだったがこれは豊臣方の罠であり、女子を含め九戸一族は根絶やしにされたと伝わる(実際、首を刎ねられた男女の人骨が出土している)。
世にいう九戸政実の乱である。

乱の終結後、九戸氏の旧領は南部宗家の所領として与えられるとともに、九戸城は蒲生氏郷によって上方風の城郭に改築された。
この改築の際に穴太衆によって築かれた石垣は東北地方の城では最古の石垣として知られる。
改築された城は「福岡城」と名付けられ、南部氏が寛永13年(1636年)に盛岡に移るまで南部氏の本拠として用いられた。

歌曲「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が当地にリンゴ狩りに訪れた際、自ら筆を執り記した「荒城の月」の歌碑が建立されている。

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|所在地|岩手県二戸市福岡城ノ内|
|現存状態|空堀、石垣、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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