津山城が言及する城。 鶴山城(つやまじょう)は、津山盆地南部にある比高50m程度の小山に築かれた城で、嘉吉年間に山名忠政により築城されたとされている。 城の南には出雲街道が通り、交通の要衝であった。 同地には、後に信州川中島より転封されてきた森忠政により津山城が築かれている。
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嘉吉元年の9月に、嘉吉の乱により勢力が衰退した赤松氏に代わり、新たに山名教清が美作国の守護となった。 鶴山城はそのころに築城され、教清は美作岩屋城の、同一族の忠政が鶴山城の城主となった。 時代は下り、京で応仁の乱が勃発すると、西軍大将であった山名宗全と共に、当時の美作守護の山名政清もそれに従い参戦した。 その間、美作は忠政に任せられていたが、のちに忠政も軍を率いて参戦することとなった。 この隙を突き、美作に赤松正則が侵攻し、国を奪取される形となった。 それと共に鶴山城も廃城となった。
「苫田郡誌」によると、森忠政が津山城を築城する直前の時点で、鶴山城の跡地には鶴山八幡宮と千代稲荷宮が勧請されていたという。 また、城の遺構の大部分は津山城のものと混じり判然としない状態になっているが、同書によると薬研濠と厩濠は鶴山城のころより存在する遺構であるとのことである。
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