宮崎県宮崎市清武町。 宮崎県の南東部に位置し、県庁所在地であるこの地に築かれた城。 それが清武城である。 この城は、清武川左岸の丘陵上に、南北380メートル、東西320メートルもの広大な城域を持つ。 本丸・二の丸・台丸などで主郭を、その周囲はいくつもの曲輪群で構成され、丘陵上に城館や寺院を置くなど都於郡城に似た構造となっている。 現在城跡は、宮崎自動車道によって一部分断され、一帯が畑や住宅地となっており遺構が見つけにくくなっている。
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この城の前身は、南北朝時代に築かれたとされる清瀧城と呼ばれていた城である。
天授5年(1379年)門川伊東氏の伊東祐行が清瀧城を改修し、名を清武城に改める。 文明17年(1485年)飫肥城攻めの後詰として伊東祐堯が入城し、伊東四十八城の一つとなる。城主は長倉伴九郎、上別府宮内少輔などが務めた。 天正5年(1577年)伊東氏没落後は、島津氏武将・伊集院久宣が入城した。 天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐後、伊東祐兵が飫肥・曾井・清武を宛がわれ、稲津掃部助重政が清武城主となる。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際、稲津掃部助は東軍方として西軍高橋元種の持城である宮崎城を攻略したが、直前に高橋氏が東軍に寝返っていたため、その責を負い孤立する。 慶長7年(1602年)稲津掃部助は、藩主伊東祐慶に清武城を攻められ誅殺された(稲津の乱)。その後、河崎駿河守が城主となった。 元和元年(1615年)一国一城令によって清武城は廃城になった。 寛永14年(1637年)清武には改めて清武地頭が置かれ、駿河守の次男河崎大學助祐信が就任する。 昭和45年(1970年)宮崎市指定史跡となった。
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