天文8年(1539年)に聖寿寺館が焼亡した後、永禄年間(1558~1570年)に南部晴政が築城し、天正年間(1573~1592年)に完成したとされる南部家の主城の一つで、留ヶ崎城とも呼ばれる。 三戸町立歴史民俗資料館(温故館)の史料からは、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された比高90メートルの河岸段丘上にある連郭式山城であり、内部には主殿、御奥、千畳敷、大書院、御金蔵等の主要殿舎が建てられ、西側下には谷丸、北側下には淡路郭と呼ばれる腰郭が敷設されていた事が窺える。 大手と搦手に石垣が見られることは注目に値するが全体的な構造は単純なもので、南部家の伝統的な城郭と近世的な城郭が組み合わさった城といえる。 現在は公園として整備され、昭和42年(1967年)に模擬天守(温故館)、平成元年(1989年)には山麓に綱御門が復元された。
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