小田城 のバックアップ(No.8)
現実の城情報
城主の小田氏治が幾度も戦に敗れ奪われるも、そのたびに復帰したという稀有な戦歴を持つ城。 続きをクリックで表示 南北朝時代、暦応元年(1338年)に小田氏の七代治久は南朝方の重臣北畠親房を小田城に迎え、小田城は南朝方の関東での拠点となった。 戦国時代には十三代治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、十四代政治は再び勢力を拡大させ江戸・大掾・結城氏などと戦った。
戦国の不死鳥・小田氏治(クリックで表示) 戦国の不死鳥・小田氏治
小田氏治とは、鎌倉時代より続く小田氏の15代当主であるが、小田城をめぐる戦いで連戦連敗するも何故か何度も復帰する戦国の不死鳥(あるいは常陸の不死鳥)として知られている。 時代は少し遡り、天文15年(1546年)に行われたとされる河越城の戦い(河越夜戦)にて氏治は、足利晴氏に味方した政治に従い攻城側として初陣を飾ったが、後北条軍を相手に歴史的な大逆転による敗北を経験したという。 弘治3年(1557年)、氏治は佐竹義昭とともに小田領に侵攻した多賀谷政経の下妻城を攻撃したが敗れ、小田城も落城すると土浦城へと逃れた。(黒子の戦い) 永禄2年(1559年)には、政勝とその子・明朝が相次いで亡くなったのを好機として結城城を攻めたが、鬼真壁の異名を持つ真壁氏幹が籠城方の援軍として駆けつけると、小田軍は総崩れとなり敗北した。 氏治は永禄5年(1562年)には後北条氏に従ったが、氏治の離反を知った上杉謙信は佐竹義昭とともに小田家の領地に攻め込み、何故か川を背にした背水の陣で迎え撃った氏治は敗走、小田城は同7年(1564年)に落城し氏治は藤沢城に逃れた。(山王堂の戦い) 永禄12年(1569年)、小田城は佐竹義重・太田資正・真壁氏幹に攻め落とされ、氏治は藤沢城に逃れるも、菅谷政貞の活躍によって小田城は奪回された。 天正16年(1588年)には佐竹義重が攻め込み、氏治は手子生城を守ったものの、籠城すべきと進言する家臣を振り切って、野戦に打って出ると挟撃に遭って敗走した。(手子生城の戦い) 以上、氏治の戦績については諸説あるが、長谷川ヨシテル(れきしクン)氏の著作『ポンコツ武将列伝』の記述に基づき解説した。 コメント
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