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元寇防塁 のバックアップ(No.7)
現実の城情報
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| 所在地 | 福岡県福岡市東区箱崎 |
| 現存状態 | 石垣(石塁) |
| 城郭構造 | 防塁 |
攻めてきたのはモンゴル人なのか(クリックで表示)
「元寇はモンゴル帝国のモンゴル人によっておこなわれた侵略行為である」というのが教科書やそれを是とする資料の認識である。陸続きであればまだしも、騎馬民族である元に造船技術はほとんどない。
実際に攻めてきた3万4万の兵のほとんどは高麗人の一般兵で、将軍や指揮官級は黒人やアラブ系の民族がおかれた。蒙古族であるモンゴル人はほとんどこの戦争に参加していないのだ。
チンギス・ハーンには1218年に高麗の地に攻め入り40年をかけ征服し、1259年に服属させた。進軍を開始した直後、高麗の政府はソウル近くの島に逃亡し、高麗はいわば無政府状態と化す。
このとき事実上その地を支配したのが三別抄(さんべつしょう)とよばれるヤクザの類である。元軍は三別抄を見事駆逐し一時撤退した。そのときに約60万人もの高麗人がそのあとをついて、ロシアに近い中国の東部へ移り住んだ。
もちろん高麗との戦争は終わってはおらず、1259年に高麗が国として元に服従するまで戦闘は続いた。高麗が元の一部として取り込まれずにその名を残せたのは「自分たちより日本という豊かな国があるからそちらを攻めた方がいい」と進言したためという説がある。
奇妙な話だが、この時点で元の属国として服従した「高麗人」とその前から元について逃亡した「高麗人」の2つが存在する。その複雑な状況下で元寇は開始されたのだ。南宋支配で手一杯であった元軍に日本を攻める余裕はなかった。
かわりに軍事費・兵糧・造船・兵力のほとんどを負担し日本への進軍をおこなったのは高麗であるから、モンゴル人が攻めてきたというのは表現が正しくない。元寇で2度にわたって攻め入ったのは高麗人であるとするのがより釈然とする。
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