河越館 のバックアップ(No.5)
現実の城情報
埼玉県川越市上戸(うわど)に位置する城館。 入間川西側の河畔、入間川と越辺川支流の小畔川に挟まれた飯能台地の北東端に建つ、城としては単純なおよそ2町(218m)四方の城地を持つ単郭式。在地豪族で秩父氏流の河越氏の館である。 続きをクリックで表示 河越氏が館を建てた頃は、高さ1~3mの土塁で周囲を囲み、その外に堀が掘られていた。いずれも一部現存している。 この堀によって方半町程度に区画された屋敷割が、道路を介しながら何区画か寄り集まるように展開していたと考えられる。 その他に井戸跡、住居跡などが残る。 鎌倉時代後期から南北朝時代頃になると、館跡の中心辺りに幅が3~4メートル近くの堀に囲まれ、一辺が一町近い方形区画が新たに造られた。 総じて戦うための城というよりは河越氏の生活を営む居館であり同時に鎌倉幕府の地方政庁に近いが、歴史の項で触れるように実戦経験もある。 久寿2年(1155年)、大蔵合戦において秩父重隆が討たれ秩父氏本拠大蔵が奪われると、重隆の孫・重頼は河越に居を移し河越重頼と名乗った。 鎌倉末期、六波羅探題が攻撃され河越貞重が近江で自刃するとその子・高重は幕府側から討幕派に転向、新田義貞に従って鎌倉攻撃に参陣する。 だが、尊氏が死ぬと関東を差配する鎌倉府の中で公方(鎌倉府の長官・室町将軍の代理人)である足利基氏(尊氏の四男)と執事(鎌倉府副長官・のち管領)である畠山国清が対立するようになる。 河越館(の跡地)が再び史料に現れるのは室町時代の最末期、というより戦国時代に入り、関東管領上杉家の末裔である山内・扇谷両上杉家の対立が深刻化したのちのことである。 扇谷方の築城した川越城を攻めるため、1497年(明応6年)に山内(管領)家方が河越館の跡地に陣を築く。これが上戸陣である。 川越市教育委員会による1971年から75年までの大規模な発掘調査により居館跡や井戸・土塁・堀跡などが出土、中世関東武士の城館の実情をよく示す史跡であると評価され、1984年『川越館跡』として国の史跡に指定される。
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