| 
	 
		檜山城  のバックアップ(No.5)
		
		 
		
現実の城情報  
 | 
		
	
| 所在地 | 秋田県能代市檜山 | 
| 現存状態 | 曲輪、土塁など | 
| 城郭構造 | 山城 | 
城郭構造(クリックで表示)
檜山城は北出羽を北流する米代川の河口から南東約12キロメートルに位置する、約133ヘクタールの広大な山塊に築かれた。標高は最高所で約165メートル、本丸で約140メートルで、城下からの比高は約125メートルとなる。
尾根部を中心に裾野まで曲輪が設けられ、深い沢を天然の堀とした要害となっており、城の北側は檜山川が西流している。城の西麓には羽州街道が通り、途中で野代湊へ向かう大間越街道と分岐するなど、水陸交通の要衝を押さえる城であった。
最高所である将軍山からは二本の尾根が西に延びて馬蹄形となり、南の尾根には本丸、二の丸、三の丸が置かれて檜山城の中心部を形成し古城地区と呼ばれる。
古城地区の最高所となる本丸からは小さな尾根が複数延び、腰曲輪が階段状に連なり堀切で遮断されている。本丸の東側には桝形虎口が設けられ、城の主要部への入口として意識されていたことがうかがえる。
将軍山から北に延びる尾根には中館と呼ばれる曲輪が置かれ、さらにその西側の高まりは高山と呼ばれ、城の北側の防備を担っていた。
檜山城の構造は安東氏が15世紀半ばまで本拠としていた十三湊の山城には見られず、南部氏の築城とも異なる。また安東氏系の山城は交易に適した海に面した場所に築かれることが多いが、檜山城は内陸に奥まっている点で異なっている。
この場所が選ばれた理由は羽州街道をはじめとする主要街道の押さえ、野代湊を拠点とする日本海水運の押さえ、そして米代川舟運と羽州街道の結節点である鶴形地区を合わせて押さえることができたからだと考えられる。
このことから、檜山城はそれまでの山城の特徴を持ちつつ、日本海側で進んだ守護大名や国人領主の山城への移動の先駆的な事例として位置づけられている。
檜山城の主な支城として大館と茶臼館があり、大館は檜山城から北西約3キロメートル、檜山川と米代川の合流地点から東側の丘陵に築かれた。
檜山川を挟んで西側の台地との間は約500メートルと、この地域の平野部では最も狭まった地点にあたり、檜山と野代を結ぶ街道を押さえるとともに北方面からの侵攻に対する最前線に立地していた。
台地中央には台地を分断するように堀切と土塁が通り、台地上の各先端部にも数条の堀が設けられた。特に台地東端では台地と館を区画する幅約5メートルの堀を含む三重の堀と二重の土塁がある。
大館からは南東に幟山へと続いており、その頂部に築かれた八重堀館は愛季の居城とも伝えられる。
茶臼館は檜山城から西に約500メートルの平坦な台地に築かれ、台地上には複数の曲輪とそれらを区画する堀切が設けられた。規模は小さく、軍事的なものよりも家臣の屋敷や街道の監視が主な役割だったと考えられる。
茶臼館の館主としては、後に檜山城の城代にもなった大高氏や、大浦為信による浪岡北畠氏滅亡後に安東氏の被官となった岩倉氏が知られる。
昭和55年(1980年)には、檜山城、大館、茶臼館、そして安東氏の菩提寺である国清寺が一括して「檜山安東氏城館跡」として国の史跡に指定された。
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を表示