山形城が言及する城。 日本100名城の一つである山形城の別名。 図鑑の説明によると、「かつて長谷堂城の戦いで、城の周りに霞がかかり、姿が見えなくなった」ことが由来とされているらしい。
贈り物イベントでの山形城の台詞によると、この城は南北朝時代に斯波氏が築城したのが始まりとされる。 三の丸からは奈良・平安時代のものと推定される竪穴式住居が見つかっているため、古来より町が栄えていた証とされる。 城郭が拡大され本格的な城となったのは最上氏の頃であり、隣国の宿敵に対抗するため、その規模は東北一を誇ったとも言われる。 ちなみに義光公は戦国時代きっての連歌の名手と呼ばれていた。
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慶長5(1600)年、徳川家康の上杉討伐を契機として、東北諸大名も豊臣方、徳川方に分かれて争うこととなった。 義光公はかねてより家康と昵懇の間柄であったため、当然徳川に味方をしたが、その結果境を接する上杉勢の攻撃を真っ向から受け止めなければならなかった。 上杉軍は直江兼続率いる二万を超える大群、対する最上勢は七千あまりだった。 しかし最上勢は二千挺もの鉄砲を使って防戦し、伊達政宗の援軍が到着すると上杉勢を撃退することに成功した。 この戦いが、東北の関ケ原と言われている「長谷堂城の戦い」であり、その功を家康に認められ、最上家は最盛期を迎えることとなった。
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