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篠脇城 のバックアップ(No.4)
現実の城情報
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| 所在地 | 岐阜県郡上市大和町牧字志ノ脇 |
| 現存状態 | 竪堀、堀切 |
| 城郭構造 | 山城 |
東氏初代東胤頼やその子重胤は藤原定家やその子二条為家に仕え和歌を学ぶなど、東氏はその始まりから歌道によく通じ、御家人の間でも評判であったという。
これは重胤やその子胤行が鎌倉三代将軍源実朝に重用されていたことからもうかがえる。
その後も美濃国に移った庶流の一族と見られる人物の歌が各時代の和歌集に見られるなど、美濃東氏は歌人の家であったと言える。
とりわけ15世紀に活動した東常縁は冷泉派の清巌正徹に学んだ後、二条派の尭孝の弟子となり歌を習い、その才覚を発揮した人物として知られている。
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『鎌倉大草紙』の記述によると、
関東の騒乱において、千葉氏嫡流が庶流馬加氏に追放される事件が発生すると、幕府は千葉氏一族である東氏に嫡流救援と馬加氏征伐を指示。
当主で常縁の兄氏数は病身であったため、常縁がかわりに関東に出征し、馬加氏やこれを支援する古河公方らと交戦を繰り返した。
その最中、京では応仁の乱が勃発。西軍方と見られた東氏は東軍方の土岐氏家宰斎藤妙椿の攻撃を受け、氏数らは篠脇城で必死の防戦を繰り広げるも落城してしまう。
これを遠く離れた関東で知った常縁は
あるが内に 欺かる世をしも 見ざりけん 人の昔の 猶も恋しき
と詠み、無念の思いとともに戦乱に向かう世をはかなんだ。
この歌が常縁に随行した人物の文によって京に伝えられると評判となり、ついには斎藤妙椿の耳にも入ることとなる。
当代きっての文化人の一人でもあり元から常縁と知己のあった斎藤妙椿は、この歌に感じいるところがあったか
同好の士(同じ歌詠みであること)である常縁に対して無礼な振る舞いができようかと、十首の和歌と引換に東氏の所領一切を返還することを提案。
これを受け、常縁は下の和歌に代表される選りすぐりの十首を妙椿に送り、これを受け取った妙椿は常縁が関東から帰還すると約束通り篠脇城をはじめとする東氏の所領をすべて返還したという。
思ひやる 心の通ふ 道ならで たよりもしらぬ 故郷のそら
これを文面通り受け取ることができるかは判断が難しい*1ものの、武家社会において歌道が重要な教養となっていたことがよくわかる史料となっている。
連歌師である宗祇は、常縁から古今和歌集の解釈を学ぶために度々篠脇城に赴いていたことが知られており、歴史上はこれが最初の古今伝授として伝えられている。
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