名生城(みょうじょう)は宮城県大崎市(陸奥国志田郡)にあった城。 江合川の河岸段丘の上段部に築かれた平城である。 南北朝期に奥州探題として陸奥に下向した斯波家兼を祖とする大崎氏代々の居城として観応2年(1351年)に建てられたと言われるがはっきりしていない。 発掘調査で発見された空堀とみられる溝の跡など、本丸を中心に多くの郭と防御施設を持った城郭であったと考えられてる
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大崎氏は東の葛西氏と争いながら、大崎平野を中心に勢力を築いたが、戦国時代に入る頃には南から勢力を伸ばす伊達氏の圧力や内紛の影響で急激に衰え始めた。 天正18年(1588年)には、寵臣同士の争いで家中が割れ、それに伊達氏が介入したことで大崎合戦が勃発する これは南の伊達氏影響下にあった黒川氏が大崎氏側につき、同族の最上氏の支援もあったこともあり、春の荒天で混乱した伊達氏の軍勢を散々に打ち破った。 しかし、摺上原の戦いの結果南東北における伊達氏の覇権が確たるものとなると大崎氏はその圧力の前に屈服する他なく、その後の東北仕置において秀吉の元に参上しなかったことを理由に改易され没落した。 旧大崎領は旧葛西領とともに木村吉清・清久に与えられたが、現地では木村吉清への反発が強く、 奥州仕置からわずか3ヶ月後の10月には、岩出沢城が旧城主である氏家吉継の家臣に占拠されたのを皮切りに旧大崎・葛西家臣団が次々に蜂起し、大崎葛西一揆が発生する。 木村親子も佐沼城において一揆勢に包囲され身動きが取れなくなり、名生城もこの時寺池城などとともに一揆勢に占拠されている。 名生城は一揆鎮圧のために派遣された蒲生氏郷が一揆勢を追い払い確保したが、この時点で氏郷のもとには伊達政宗が一揆を扇動しているとの密告が届き、 蒲生氏郷は一揆勢だけではなく伊達政宗にも備えるために越年覚悟で名生城に籠城し、伊達政宗に伊達成実・国分盛重を人質として出させた上で引き上げた。
一揆鎮圧後、旧大崎葛西領は伊達政宗に与えられることとなったが、この頃から名生城の名が見られなくなることから、この時に廃城になったものと見られている。 その後は周辺の田畑化が進んでいたが、その際に古い時代の瓦が多数見つかるなどしたため、 1980年台に発掘調査が行われた結果、名生城の遺構が多数見つかっただけでなく、さらに古い時代の遡ると見られる遺構も多く見つかり、同地は多賀城よりも時代の早い官衙である玉造柵の候補の1つと見なされるようになった。 主郭である大館付近は国指定の史跡「名生館官衙遺跡」となっているが、その他の遺構は広い範囲が長年の田畑開墾により失われてしまっている。
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