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勝幡城 のバックアップ(No.4)
現実の城情報
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| 所在地 | 愛知県愛西市勝幡町~愛知県稲沢市平和町六輪字城之内 |
| 現存状態 | 石碑、木碑 |
| 城郭構造 | 平城 |
城郭構造(クリックで表示)
城郭の特徴としては大きな櫓台があり、10メートル四方の台に相当な規模の櫓があったとされる。
土塁も高く、水害対策(近くを流れる三宅川を含めた河川の氾濫への備え)としても機能した。
曲輪は外周を埋めるような円状ではなく、北の曲輪は弧を描いた先が緩やかに外へ向いており、南から伸びてくる曲輪の端が望める。
これは「横矢」と呼ばれる防衛の工夫のひとつで、敵を両方角から矢で射貫く設備である。
南北の曲輪の端の間には土橋が設けられており、本丸へ進もうと渡った敵を両端から一斉に狙撃することができる。
これを「合横矢(あいよこや)」「両横矢(りょうよこや)」といい、勝幡城は横矢を四方に張り巡らせ厳重に守らせたとされる。
尾張の虎・織田信秀(クリックで表示)
信長の父である織田信秀は、生年には諸説あるが、永正7年(1510年)に尾張国の織田大和守家の家臣・織田信定(信貞とも)の嫡男として勝幡城で生まれた。
家系は清洲三奉行の一つ・弾正忠家であり、信定も津島を勢力下に置いていたが、大永6年4月(1526年)から同7年(1527年)6月の間に信秀に家督を譲った。
信秀は天文元年(1532年)、清州三奉行の一人で小田井城主の織田藤左衛門と争い講和し、天文2年(1533年)には蹴鞠の宗家・飛鳥井雅綱や山科言継、今川氏豊を勝幡城に招いている。
天文3年(1534年)には子の信長が生まれ、天文7年(1538年)頃には、謀略により氏豊の居城・那古野城を奪取した。
信秀は東方への備えのため古渡城を築き熱田を支配すると、天文17年(1548年)には末森城を築き拠点を移し、確かな経済基盤を築くとその勢力は主家を凌ぐようになり戦国大名化した。
信秀は友好関係にあった氏豊の居城・那古野城を突如奪取したり、今川館の今川義元の下に人質として送られるはずだった竹千代(のちの徳川家康)を買収により強奪したり、戦国時代屈指の謀略家であったことで知られる。
のちに義元に長男(生母は側室)の信広が捕縛されると竹千代との人質交換に応じ、徐々に勢力は縮小したが、信長に引き継がれる基盤を作ったことは紛れもない事実である。
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