シリア西部ホムス付近のオロンテス川西岸の標高約650メートルの地点に築かれ、当初はイスラームやビザンツ帝国(東ローマ帝国)の城塞だったが、十字軍国家の一つトリポリ伯領が境界防衛に用い、1144年に聖ヨハネ騎士団に譲渡された。 クラック・デ・シュヴァリエは1142年と12世紀末に大規模な改修が行われ、その後も細かな改修が重ねられていった。 この改修には、十字軍の人々が母国では用いなかった技術が投入された。というのも、当時の西欧では木材と土でできた城塞がほとんどであり、十字軍遠征で目の当たりにした石造による城塞の攻囲戦やその築城技術は未経験だったのである。 十字軍はイスラーム勢力に対抗するため、クラック・デ・シュヴァリエのような石造の巨大な多重城壁、円形平面の城塔を導入し、このような十字軍の築城に影響を受けたイングランド王リチャード1世獅子心王はガイヤール城を築城している。 クラック・デ・シュヴァリエは1188年、アイユーブ朝のスルタン・サラディンの攻囲を撃退し、1207年、1218年、1229年、1252年、1267年の攻囲も凌いだが、1271年3月にマムルーク朝のスルタン・バイバルスが攻囲した際には守備兵が200人のみしか残っておらず、約6週間の攻囲戦の末に落城した。
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