「シチリアの晩祷」で知られるシャルル・ダンジューが築き、歴代ナポリ王の居城となった王宮。 フランス・アンジュー家出身のシャルルはホーエンシュタウフェン家と対立するローマ教皇の要請を受け、1266年にシチリア王カルロ1世として即位、シチリア王国のマンフレーディとコンラーディンを討ってホーエンシュタウフェン家を滅ぼした。 シチリア王国の王宮はパレルモに置かれていたがシャルルはナポリを拠点とし、1279年にそれまで王宮を置いたカステル・カプアーノやカステル・デローヴォ(卵城)に代えて、「新しい城」を意味するカステル・ヌォヴォの建設を始めた。 設計はかつてアンジュー家が所有し、シャルルの兄でフランス王のルイ9世聖王が改修したアンジェ城を参考にしたとされる。
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シャルルはイタリアだけでなく東欧にも勢力を広げ、ラテン帝国の残存勢力やブルガリア、セルビアなど東ローマ帝国に対抗する勢力と連携し、地中海世界に大きな影響力を持っていた。 しかし1282年、「シチリアの晩祷」と呼ばれる反乱でスペインのアラゴン王国にシチリアを奪われ、これによってシチリア王国はアラゴン王国が支配するシチリア島と、ナポリを拠点とするシャルルのナポリ王国とに分裂した。 この年カステル・ヌォヴォも完成するが、シャルルはアラゴン王国との晩祷戦争に忙殺され、ほとんど居住しなかった。 シャルルの後を継いだカルロ2世の代でカステル・ヌォヴォは王宮として拡張・整備され、ローマ教皇ケレスティヌス5世の辞任やボニファティウス8世の就任がここで行われている。 カルロ2世の子ロベルト1世賢明王の時代でカステル・ヌォヴォはさらに拡張され、人文主義者のペトラルカやボッカチオがこの城を訪れるなど、初期ルネサンス文化の一大中心地となった。
ロベルトの死後、その孫ジョヴァンナが女王として即位したが、これに反発したハンガリー・アンジュー家のラヨシュ1世大王がナポリに侵攻したためカステル・ヌォヴォは大きく損傷し、その後もナポリ王国では内乱が続き城は荒廃した。 1442年、トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世はナポリ王国を征服し、ナポリ王アルフォンソ1世として即位した。 アルフォンソはイタリアとスペインの建築家を招き、それまでのフランス様式の城の大改修を行った。 新たなカステル・ヌォヴォは5棟の巨大な円形塔を備え、高い内城壁の外側に低い外城壁をめぐらせ、大砲による攻撃に対応した補助城壁も設けられ、これらのアラゴン王国時代に築かれた城が、現在見られるカステル・ヌォヴォの原型となった。
1494年、フランス王シャルル8世がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が始まった。 シャルルはナポリ王として即位するがすぐにトラスタマラ家に王位を奪還され、ナポリ王国はフランスとスペインの争奪戦の舞台となり、カステル・ヌォヴォは軍事拠点としての要素が強くなって王宮としての機能は失われていった。 その後ナポリ王国はスペイン・ハプスブルク家やオーストリア・ハプスブルク家が支配し、スペイン・ブルボン家の時代にカゼルタ宮殿・カポディモンテ宮殿・ポルティチ宮殿が新たに築かれ、カステル・ヌォヴォは完全に王宮としての役割を終えた。
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