標高583メートルの山上に高石垣が建ち並ぶ日本最大級の山城で、備中松山城・岩村城とともに日本三大山城に数えられる。 大和郡山城の筒井氏、龍王山城の十市氏などと並ぶ大和国五大国衆の1つである越智氏が、南北朝時代にごく簡単な造りの掻き揚げ城として築き、当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城だったが戦国時代に本城となった。 天正8年(1580年)、織田信長の破城令で大和国の城を大和郡山城のみになると高取城は廃城となったが、本能寺の変後の天正12年(1584年)に筒井順慶が大和郡山城の支城の一つとして高取城を改修した。 翌年には大和の領主となった豊臣秀長の重臣・本多利久が入城し、その家臣の軍学者・諸木大膳が近世城郭に大改修した。
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高取城は関ヶ原の戦いの際に石田三成が差し向けた軍勢の攻撃を受けているが、これを撃退している。 江戸時代には高取藩本多氏の居城となり、本多氏の断絶後は植村氏が14代に渡って城主となり、城の改修が継続された。
高取城は近世城郭には珍しく急峻な山を利用した山城で、城下町からの比高は約390メートル、直線距離では約3キロメートルも離れているため、城主や家臣は山上に屋敷を構えて生活し、そのため山全体が城域となっていた。 城内には総延長3.5キロメートルにもおよぶ石垣が巡らされ、最も高い約12メートルの高石垣の上には天守がそびえた。 また27基の櫓、33棟の城門、総延長約2.9キロメートルの塀も建ち並び、「たつみ高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城」(土佐は高取の旧名)と、その壮麗さが詠われた。
しかし江戸時代中期になると、その不便さから政務は山麓で行われるようになり、山城には城番が置かれた。 それでも山城部分は廃城になったわけではなく、三河以来の譜代家臣だった植村氏は幕府に許可を得なくても城の修築を行える「常普請」と呼ばれる特例を許され、高取城は年代の違う瓦が見られ石垣も良好に残っていることから、植村氏によって定期的に修築されていたと考えられる。 幕末には天誅組の攻撃を受けるが撃退し、明治6年(1873年)に廃城となって建物の多くが城下に移築された。
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