鞠智城(きくちのき)は白村江の戦い以降に築城された八角形鼓楼をもつ古代山城(朝鮮式山城)であり、当時の地名が「久々知(くくち)」であったため正式には「くくちのき」と発音する。 九州の国府である大宰府ならびにその防衛にあたる大野城・基肄城へ、武器と食糧を補給する支援基地として築かれた。 築城命令を出した、または築城を記した文献は一切存在しないが『続日本紀』(文武天皇2年(698年)5月25日条)で「大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」*1とあるため、築城はそれ以前と考えて間違いない。 様相としては外周3.5キロメートル、面積55ヘクタールの規模をもつ城で、上記の八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡など、当時の姿が窺える貴重な遺構が相次いで発見された。 昭和42年(1967年)度からの県の発掘調査による成果に基づき、平成6年(1994年)度から4棟の復元建物(八角形鼓楼、米倉、兵舎・板倉)をはじめ、城の立地や規模、構造などを体験し学ぶ学習公園として整備された。 その甲斐あって年間の入館者は10万人にのぼる(2007年調査時)。
八角形鼓楼(続きをクリックで表示)
塔状の鼓楼は音を鳴らし他の兵に敵の侵入を報せたり、見張り塔としての性格を持つが、国内その他の古代山城では近しい施設を全く見ないことが興味深い。 遺跡では4基の八角形建物跡が見つかり現在はその一つを復元し観光資源とした。朝鮮半島の二聖(イーソン)山城でも同じようなものがあるためその技術に倣っていると思われる。 有事の際は有明海の動向を探る防人が烽火をあげ、鞠智城に伝達し太鼓で知らせていたと思われる。復元した八角形鼓楼は高さ15.8メートル、重量約76トンの瓦が載る建物からの太鼓の音はさぞ広く響いたであろう。 大宰府から山を越え一昼夜の行軍で到達できる距離間で、緊急時の兵の移動もそれほど時間を要さない。
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