加賀藩主前田利長が隠居後に築いた晩年の居城。当初利長は富山城を隠居城としたが、慶長14年(1609年)3月に富山城が焼失したため、一時魚津城に移った後、幕府の許可を得て射水郡関野で同年4月16日に着工、同年9月8日に本丸が完成すると13日には利長が入城して地名を高岡と改めた。 越中高岡城の縄張は豊臣秀吉が築いた聚楽第の影響を受けた、いわゆる聚楽第型城郭と呼ばれるものであり、本丸を中心に北・東・南側に馬出郭を設け、これらの郭を土橋でつないで二重に重ねて防御する、極めて防御性の高い構造となっていた。 当時高岡城の虎口で城外と連絡していたのは北陸街道につながる一箇所のみであり、さらに本丸の背後には松娘ヶ淵と呼ばれる広大な湖が天然の堀となっており、本丸に到達するには連続する馬出郭を突破する必要があった。また高岡城の馬出郭をつなぐ土橋は、鉄砲の有効射程距離である約80メートルの位置に築かれ、土橋を通過する敵兵に対し横矢をかけるような構造となっていた。 隠居城として用いられたのは短期間で、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。
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だが廃城後も加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持され続けた。また街道の付け替えの際には、濠塁が残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町屋を移転して目隠しにしたり、利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や利長の墓自体も高岡城の南方の防御拠点として配置されたと考えられている。
廃藩置県後は民間に払い下げられたが、現在は「高岡古城公園」として本丸に射水神社、二ノ丸に市民会館、鍛冶丸に市立博物館、明丸に動物園・三ノ丸に市民体育館などの施設がある。 平成2年(1990年)に「日本さくら名所100選」に選定。平成18年(2006年)に日本城郭協会により「日本100名城」に富山県内から唯一選ばれ、平成27年(2015年)には「高岡城跡」として国の史跡に指定された。
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