別名:大友上野館,上原館,御屋敷 大友義鑑の死の原因となった「二階崩れの変」の舞台となった場所。(この時宗麟は浜脇館にいる) 城というよりは館。大友7代氏泰の時に古国府から館を移した。上野丘高校北東にある小高い丘に付近にあった。小さな天満宮の敷地内に碑が立っている。 地上からではいまいちわかりにくいが、上空から見るとかつて館があった範囲が窺える。 大友氏館(上野館)は大分川の西岸にある標高20m余りの台地の上に築かれていた。 近年北方の顕徳町に大友氏館が築かれていたことが発掘調査によって明らかとなったが、この上原館はそれ以前より大友氏の中心的な館であったと考えられてきた。 実質的な防衛面は、近隣の城となっていた。
上原館は大半が宅地になっているが、天満宮が鎮座している所が南辺の高土塁で、ここに石碑と案内板が設置されている。 1530年大友氏第20代当主大友義鑑(よしあき)の嫡男第21代当主大友宗麟がここで産れる。
隣接の大友館(現在発掘作業中)豊後守護職である大友氏の居館。天正14年(1586年)の島津侵攻時に焼失 大友宗麟が大友義統に家督を譲った頃に建てられた。約200m四方及ぶ大きな館で、日豊線に接する南端部は池のある庭園になっていた。 同年、ルイス・デ・アルメイダによって創設された日本初の西洋医学の病院で外科、内科、ハンセン氏病科の総合病院や1558年に設立された医学教育施設、私財を投じて建てた乳児院も焼失した。 尚若い女性や子供を島津軍により近隣の村から強奪、海外(明、ポルトガル、インド他)へ人身売買で奴隷として売却されたため若者が居なくなり荒廃は著しく府内は衰退していった。天生15年豊臣秀吉の九州平定まで続く。 尚ポルトガル移送船の中では大多数の奴隷が死んでいた、生き残っても言葉も文化も違うところで苦労は必至であったと思われる。明では農奴として家族は持てなかった。 ルイス・デ・アルメイダの意思を継ぎボランティアの原型と云える「ミゼリコルディア」と云う互助会活動を続けてきたキリスト教徒が相当数いた為、全滅とまではいかなかった日本発のボランティアと云われている。 現在大友氏の菩提寺である万寿寺跡と共に大友氏遺跡として発掘が続けられている。
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