村上源氏中院家庶流である北畠氏の一族で、陸奥国司・北畠顕家の子孫とされる浪岡北畠氏の居城。 浪岡は9~17世紀にわたって地域の政治的中心であり、当初浪岡北畠氏は源常館を居館とし、浪岡城は1460年代に北畠顕義が浪岡川や正平津川などの流れに挟まれた台地上に築いたという。 城を構成する内館・西館・北館・猿楽館・検校館・東館・無名の曲輪・新館という八つの曲輪は、いずれも単独で居館として機能できるほどの規模だった。 それぞれの曲輪は二重から三重の堀で区切られて直接はつながっておらず、独立した八つの曲輪が複合した城郭といえる。 この構造は領主と家臣という縦のつながりよりも、一族間の横のつながりを反映しており、東北地方の地域性を表している。
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浪岡北畠氏は顕義の孫・具永の代に最盛期を迎え、「浪岡御所」の敬称で呼ばれ津軽地方に大勢力を築いたが、具永の孫・具運の代で川原御所の乱と呼ばれる一族間の内乱が起こり、衰退していった。 この内乱で具運は殺害され、その子・顕村は勢力維持に努めたものの、天正6年(1578年)に津軽統一を進める大浦為信に攻撃され、浪岡城は落城した。 浪岡北畠氏の最後の当主となった顕村はこの時自害したとも、脇本城の安東愛季を頼って落ち延びたともいう。 その後の浪岡城の動向は不明だが、為信が油川城攻めを行った際に浪岡城を拠点としたとされ、大浦氏によって一定期間管理されてたのち、廃城となったと考えられる。
浪岡城は勝山館や志苔館、根城と並び北日本の代表的な中世城郭として知られ、昭和15年(1940年)年2月10日に青森県内で初めて国の史跡に指定された。
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