大森城は福島盆地南縁に位置する独立した山塊に築かれた山城である。 現在では公園化の影響もあって往時の姿を想像するのは難しいが、山塊頂上部の主郭を中心に土塁・空堀で郭に区切った典型的な山城の体裁を持っていたと考えられる。 信夫郡南端部にも近いこの城は、南に対する備えとしてうってつけの位置にあり、発掘調査等で鎌倉~室町時代の板碑が発見されていることから、鎌倉期には当地を得た武士の拠点とおぼしきものが存在したと考えられている。 しかし大森城に関連する記録はほとんど残されておらず、築城時期などについては不明となっている。
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大森城が歴史の表舞台に出てくるのは時代が大きくくだった16世紀半ばにさしかかってからである。 この時期の大森城は伊達氏勢力圏の南端に位置する重要な城となっており、伊達稙宗の三男実元が城主として入り、南の二本松畠山氏などに備えていた。 実元は伊達家中の内紛から南東北諸氏を巻き込んだ大騒乱に発展した天文の乱の際には父稙宗につくなどの活動が見られ、晴宗の代以降も大森城主として当地で活動している。 その後を継いだのが伊達成実であり、片倉景綱とともに伊達政宗の重臣として活躍した。 伊達政宗の代の南方への拡張期においても、二本松城が開城し成実が二本松城に移った際にはかわって片倉景綱が入るなど、大森城は重要拠点の1つとして機能していることがわかる。 豊臣秀吉により天下統一がなされ、その後の大崎葛西一揆に対する処置で伊達氏が信夫郡などを失うと、かわってこれを与えられた蒲生氏郷の客将となっていた木村吉清が大森城に入った。 間もなく、吉清は杉目城を福島城と改め居城をこれに移し、大森城は一度廃された。 しかし蒲生氏が会津から移封されかわりに上杉景勝が入ると、防衛上の要請から大森城は再度重要視され、栗田国時が城主となり、国時が関ヶ原の合戦前に内通を疑われ殺害されると芋川正親が入った。 上杉氏の米沢移封後も米沢藩領であったことから芋川氏が城主として続いたが、寛文4年(1664年)の上杉綱勝の急死と末期養子による綱憲相続に伴う領地召し上げにより一帯が天領となると大森城は廃された。
跡地は大森城山公園として整備されており、模擬櫓などが建てられているが、これに伴う改変により、かえって当時の姿がわかりにくくなっているともされている。 とはいえ、主郭と思われる北側頂上部の南には土塁や空堀が残っており、麓には水堀として用いられたと思われる水路も存在している。 南部は多くが農地や雑木林になっており、所々に遺構とおぼしき痕跡が残されているが、北側と違い整備されていないためわかりにくいものとなっている。
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