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三田城 のバックアップ(No.3)
現実の城情報
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| 所在地 | 兵庫県三田市屋敷町・天神 |
| 現存状態 | 内堀跡 |
| 城郭構造 | 平山城 |
三田陣屋の大池(クリックで表示)
三田小の南に大きな溜池が存在する。これは三田御池(大池)と呼ばれ、九鬼氏時代に元々水軍衆の流れを組む九鬼氏の伝統を内陸の三田の地で保つため、この池を使って水軍訓練を行っていたと言われている。
競馬界に残る摂津有馬氏の名跡(クリックで表示)
久留米に移った有馬氏は明治維新まで同地を治め続け、明治期になると華族となり有馬氏14代当主有馬頼万は華族令が公布されると伯爵に叙せられた。
その子15代当主有馬頼寧は政治家として農政などに携わる他、プロ野球チームを一時的ながら所持するなどスポーツにも積極的に関わった。
戦後、頼寧は日本中央競馬会第2代理事長となりレースの実況放送を始めるなど、多くのアイデアを考案、ファンサービスに努めるなど、現在に続く日本中央競馬会の基盤作りの大きく貢献した。
そして、彼の最大の功績とされるのが、プロ野球のオールスターゲームのファン投票にならった、ファンの人気投票によって出走馬を選出するレース「中山グランプリ」の創設であった。
昭和31年(1956年)暮れに行われた第1回レースは頼寧の期待通り12頭立ての中に天皇賞優勝馬3頭、クラシック競走優勝馬4頭と現役最強馬決定戦の様相となり、中山競馬場には平時の2.5倍以上の観客が押し寄せるなど大盛況となった。
その直後の昭和32年(1957年)1月7日頼寧は急性肺炎により急死、日本中央競馬会は彼の功績を称えるため、この年の暮れの第2回中山グランプリを「有馬記念」へと改称*1した。
有馬記念はファン投票による選出制度とともに暮れの大レースとして現在まで続いており、平成8年(1996年)には馬券の売上げがギネス記録を達成するなど、日本の競馬界を代表するレースの1つとなっている。
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