最上義光と鮭延秀綱との激しい攻防戦で知られる、近江源氏佐々木氏の流れをくむ鮭延氏の居城。 鮭延氏は仙北の小野寺氏の支援で佐々木貞綱(鮭延貞綱)が鮭延に進出し、当初は最上川に近い岩花を本拠地としたが、後に鮭延に移り天文年間に鮭延城を築いたとされる。 鮭延城は真室川に張り出す舌状台地の先端、北は近江沢、南には薬師沢が入り込む台地が最も狭い地点に築かれ、北側の台地で地続きとなる部分を三本の堀切と土塁によって遮断し、さらに北側斜面には四本の畝状空堀を設けた。 このうち城側の堀切は特に大規模で、堀切は上幅約15メートル、深さ5メートルの薬研堀となっており、また城内にも大規模な土塁と空堀があり、これによって曲輪は大きく2つに分けられていた。 2つの曲輪のうち台地の奥側が城の主要部であり、この部分もさらに2つの区画に分けられ、最奥部が主郭となっていた。
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戦国時代末期の鮭延城主として知られるのが鮭延秀綱で、彼が生前に自身の半生を近臣に語った「鮭延越前守聞書」に、最上義光との鮭延城での攻防戦が記されている。 それによると、延沢満延を調略して天童氏を降した義光は満延に鮭延城を攻撃させ、これに対し秀綱は300の兵でよく守り、膠着状態となっているうちに冬を迎えた。 翌年、義光は自ら軍を率いて鮭延城に本格的な攻勢をかけ、自身は大手口から、氏家守棟と延沢満延が搦手口から攻め寄せたが秀綱の奮戦により鮭延城は落ちず、義光は小野寺氏に仲介を要請し、秀綱は小野寺氏の説得によってようやく降伏したという。 この義光による鮭延城攻めの際、城の北には土塁や空堀を備えた大規模な陣城が築かれており、大将陣と伝わる北側の陣城には義光が、延沢陣と伝わる南側の陣城には満延が陣を置いていたと考えられる。
秀綱は降伏後、義光による出羽統一戦に加わって活躍し、また慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦では長谷堂城に副将として入って城主の志村光安を支え、上杉氏の直江兼続による包囲を耐え抜いた。 この時兼続は秀綱の奮戦を「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と讃えたとされ、御城プロジェクトにおいても緊急出兵極楽往生おころりよにて、大将兜兼続は長谷堂城が落ちなかったのは秀綱がいてこそであったと語っている。 江戸時代になり、慶長19年(1614年)に義光が死去すると子の家親が後を継いだが、家親は元和3年(1617年)に急死し、その子義俊が後を継いだ。 しかし秀綱は義俊の家督相続に反発し、義光の四男山野辺義忠を擁立したため最上氏ではお家騒動が勃発した。最上騒動と呼ばれるこの内紛により最上氏は元和8年(1622年)に改易され、秀綱は佐倉藩の土井利勝に預けられた。 この時鮭延城は一時伊達氏に接収され、翌年に戸沢政盛が出羽に入り新庄藩が立藩された。政盛は当初鮭延城にいたが寛永2年(1625年)に新庄城に移り、鮭延城は廃城となった。
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