白山城 のバックアップ(No.2)

文治5年(1189年)宗像大宮司氏国によって築かれたと云われる。 文治5年(1189年)父氏実から宗像大宮司職を譲られた氏国が白山城を築いて居城とした。

建武3年・延元元年(1336年)京で敗れて九州へ落ちのびた足利尊氏は、この白山城に迎えられ、南朝方の菊池武敏を多々良浜で敗り勢力を盛り返した。

天文20年(1551年)宗像大宮司氏男は大内義隆に従っていたが、陶晴賢の謀叛により義隆に殉じて自刃した。
これにより宗像大宮司職を巡る家督争いが勃発し、白山城には鍋寿丸(氏貞)、蔦ヶ岳城には千代松が籠もって対峙した。
陶晴賢の支援をうけた鍋寿丸が宗像大宮司職を継ぎ宗像氏貞と名乗った。永禄5年(1562年)氏貞は岳山城を改修して居城を移している。
白山城は孔大寺山から南へ派生した尾根の先端、標高319mの山頂に築かれている。 南麓には山田地蔵尊増福禅院があり、登山口もここにある。

白山城は標高319mの地点に主郭を置き、南西に伸びた尾根の曲輪群、西へ伸びた尾根の曲輪群そして北東尾根の曲輪群で構成されている。この城の特色は尾根道に設けた連続竪堀にある。一般的な畝状竪堀群は曲輪下の側面に設けられ、この白山城でも主郭部の西側一帯に見ることができるが、尾根道に連続竪堀を設けやや放射線状に配置するものは珍しい。しかも、そのような遺構が主郭の南西、西、そして孔大寺山方面の北側と三方全ての尾根道に設けられている。

主郭部は東西二段、北下に一段の三段から成り、西が一番高くなっている。この主郭部の側面は南から西側一面に畝状竪堀群を設けている。北西に伸びた尾根にある畝状竪堀群の状態は良く、畝状竪堀群の先端は横堀状になった堀切で遮断している。

南西に伸びた尾根の曲輪群は増福禅院からの大手道で南西の先端に二条の堀切を設け、三段の曲輪になっている。この曲輪群の東側面に水の手とも伝わる水穴がある。

西尾根の曲輪群は主郭部の北西尾根先端の堀切からやや離れた西尾根の先端部付近にかる。尾根道は自然地形に近い部分が多く、先端部は削平され、その下の尾根に竪堀群があり、ここにも水穴のような穴がある。

北尾根の孔大寺山に向かう尾根には主郭から直線で200m、400m地点付近に峰があり、それぞれ削平されている。奥の400m地点が北端でここから降りる尾根に竪堀群が付いている。
宗像氏が白山城を築いた山で、城跡には主郭、曲輪、土塁、掘切などの跡が残っている。
山の麓には禅宗の山田地蔵尊増福院があり、安産や子育て等、子どもの無病息災を願い、多くの方が参拝に訪れている。天文21年(1552年)3月、宗像大宮司氏雄(うじお)卿の正室・菊姫とその母、山田局(つぼね)、それに侍女の4人が、謀反(むほん)を企てた家臣によって謀殺され、その後、謀反者は怪死、宗像一円には飢饉(ききん)や疫病が相次ぎ、これを6人の怨念とみた、和尚がこの地に同院を開山、6体の地蔵を安置したところ、程なく祟りはおさまりましたと伝えられている。
近くには、山田の局と菊姫伝説の菊姫の墓、花尾の局・三日月・小夜・小少将の墓があり、歴史を目の当りに感じられる。更に、禅に徹した悲運の勇将、 宗像大宮司氏貞公の墓、氏貞公(1545~1587)の没後、宗像家は断絶の悲運にあい、承福寺も衰徴したが、のちに黒田家が筑前の国を支配するようになり、如水公御廻郡の折、当寺へ立ち寄り、荒廃した寺院を立て直すべく、 寺領の安堵と、田畑を寄付し、承福寺を擁護し先の国主(宗像家)の菩提寺となった。

所在地福岡県宗像市山田
現存状態曲輪跡
城郭構造山城

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