甲山城(こうやまじょう)は広島県庄原市(備後国三上郡)にあった山城である。 庄原市中心部から西の、西城川南岸に広がる丘陵から南に突き出た標高316mの甲山全域を利用し、山頂の主郭の南北に広い郭が存在し、その周囲は斜面に沿うように小規模な曲輪で囲まれ、空堀等で防御線を築いている。 甲山城を築いた山内氏は山内首藤俊通を祖とし、各地に広がった山内首藤氏一族の嫡流である。庶流には陸奥山内氏や出羽の小野寺氏、土佐の吉田氏などがあり、山内一豊の土佐山内氏も山内首藤氏の庶流であるという。 山内首藤通資が正和5年(1316年)に一族郎党を引き連れて承久の乱の際に得た備後の所領に移り、蔀山城を拠点にこれを治め、南北朝の動乱の中で文和四年(1355年)新たな拠点として甲山城を築き、これを本城とした。
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備後山内氏は当初備後守護山名氏に従っていたが、応仁の乱以降山名氏の勢力が衰えると自立、周辺の国人を配下に取り込み、備後北西部にその勢力を広げ、備後の有力国人となった。 永正~享禄期になると、備後には出雲の尼子氏が進出してくるとともに、西からは徐々に周防・長門の大内氏が安芸を経て勢力を広げてきたため、両者に挟まれることになるが、地理的に近い尼子方に属した期間が長かった。 しかし、大内義隆による月山富田城攻めの総崩れから這々の体で退却してきた毛利元就を甲山城に迎え、家臣をつけて毛利領まで送ったりと、毛利元就にもある程度気脈を通じていた。 最終的に天文22年(1553年)に尼子氏を離れ毛利元就に属し、毛利元就も山内氏の所領を安堵するなど山内氏を丁重に迎えた。 その後も山内氏は甲山城を拠点に毛利家臣として活躍したが、天正19年(1591年)に山内元資が広島城下に移り同地を離れ、関ヶ原後毛利氏が周防・長門の2カ国に減封された際山内氏も萩へと移り、この時甲山城は廃城になった。
現在では甲山山頂付近に城址碑が立てられており、付近には土塁などの遺構が確認出来る他中腹には山内氏の菩提寺であった円通寺が現在でも続いている。
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