応永年間(1394年~1428年)、富島氏によって関ヶ原盆地の西南、松尾山に築かれた。 浅井家臣で鎌刃城主の堀秀村に仕え、稲葉山城乗っ取り事件のあと竹中半兵衛を長亭軒で世話した樋口直房も浅井長政の命で一時ここを占拠しているが、半兵衛の調略により秀村とともに織田に寝返った。 その後は、稲葉良通、安藤守就、氏家直元とともに西美濃四人衆とも言われるも斎藤氏滅亡後、織田信長に仕えた不破光治が入城したが、龍門寺城に移ると一時廃城になった。 しかし、慶長5年(1600年)、石田三成と徳川家康の衝突が避けられなくなると、大垣城主・伊藤盛正(盛宗とも)は三成に大垣城を提供するとともに松尾山城を修築し、布陣することとなった。
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三成は西軍総大将・毛利輝元を松尾山城に布陣させようとしていたともいうが、輝元は吉川広家の背信行為により動けず、さらに松尾山城に布陣した盛正も小早川秀秋により追い払われることとなった。 秀秋は既にこのとき東軍と内通しており、備えとして布陣していた脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子(朽木元綱、赤座直保の名は一次史料では確認できない)も開戦直後に裏切り大谷吉継隊を攻撃、西軍は瞬く間に壊滅した。 また、奥平貞治も秀秋の目付とされていたともいうが、生駒利豊の書状により、実際には尾張衆の一人として秀秋とは全く無関係に討ち死にしたものだと考えられる。
なお有名な「問鉄砲」の逸話は、そもそも現地に足を運べば一目瞭然で、比高190メートルもある松尾山に鉄砲が届くはずもなく、また前述の通り秀秋は開戦時点で東軍と言ってもよく、家康が松尾山に鉄砲を撃ちかけたというのは史実であるとは思われない。
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