月隈城 のバックアップ(No.2)

慶長五年(1600)関が原の合戦のよって徳川氏が実権を握った。翌六年、小川壱岐守が封ぜられ月隈山上に築城して丸山城と名づけた。
この月隈城は完成まで3年間を要した。小川壱岐守が死んで子供がなかったので、一族の小川嘉助・小川又左衛門が守代を務めた。元和二年(1616)、石川主殿頭忠総が六万石の領主として入ったので、小川氏は上京した。このとき丸山城を永山城と改めた。
石川氏は寛文九年(1669)、山城国の淀城に移封となり、その跡は月隈城・日隈城とも小笠原氏が支配し、それぞれに番代を置いた。寛永十六年(1639)、先に城代であった小川嘉助の子小川藤右衛門正慶と、小川又左衛門の子小川九郎右衛門政重が、天領二万石の代官として畿内から来郡した。寛文五年(1665)、肥後細川家の天領預りとなり、天和二年(1682)、姫路から松平直矩が豊後のうち七万石の領主となって月隈城に入ったが、山上の城は不便であるので山麓に館を築いた。直矩は館の完成を待たず山形に転封、その跡に小川藤左衛門が入り代官所とした。
日田の支配形態はそれまで公領・私領とたびたび変遷を重ねてきたが小川氏が代官となり、最後の代官窪田治部右衛門鎮勝が逃走するまで約180年間、徳川幕府の天領として支配された。



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