小田城 のバックアップ(No.2)
現実の城情報
【歴史】 南北朝時代、暦応元年(1338年)に小田氏の七代治久は南朝方の重臣北畠親房を小田城に迎え、小田城は南朝方の関東での拠点となった。 戦国時代には十三代治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、十四代政治は再び勢力を拡大させ江戸・大掾・結城氏などと戦った。 小田城は弘治2年(1556年)に後北条氏の支援を得た結城氏によって落城し、氏治は土浦城へと逃れた。 【城郭構造】 広大な小田城では本丸を中心にいくつもの曲輪が取り囲む構造となっている。 小田城の北側はほとんどが住宅となっているが、航空写真と対比すると地割は明確に残っており、また土塁や堀の跡も部分的に確認することができる。 小田城には小字や通称、また絵図などの地名に中世の名残をとどめたものが多く、これによってある程度復元することもできる。 平成9年(1997年)度から行ってきた確認調査の成果から、小田城は盛土整地などの改修を行いながら、鎌倉時代から戦国時代まで使用され続けてきたことが判明した。 第1面にあたる戦国時代後半の本丸跡については面的に調査を行っているため詳細が判明している。 本丸の内部は土塁の内側で東西約100メートル、南北約115メートルのほぼ方形で、建物が集中する北西部(建物域)は大溝によって区画される。 小田城周辺の状況も遺存状態は良くないが、地名などから推測することができる。 史跡指定地の外側には「西町」「荒宿」「大町」「今宿」「見世屋」「台見世屋」「鍛冶屋敷」「新屋敷」「士屋敷」などの町場に関係した地名が散見される。
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