勝山館は蠣崎氏初期の居城である。 現在の上ノ国町中心部の西に位置する夷王山の斜面を利用した長さ270m、幅100mの大規模な居館であり、15世紀後半からアイヌとの抗争が繰り返されたこともあり柵や空堀などの防御施設も多数存在していた。 一方、麓では和人とアイヌが混じって暮らしていたことがわかっており、対アイヌ交易の拠点として賑わっていたことがうかがえる。 築城時期は一説では武田信広による寛正3年(1462年)とされており、館領域内にある館神八幡宮が文明5年(1473年)創建であるとされていることから、遅くとも15世紀後半までには築かれたと考えられる。
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武田信広は蠣崎氏の祖となった人物であり、松前氏の記録では若狭武田氏の一族であるという。 しかし、信頼できる一次史料の多い若狭武田氏の中に信広の名は確認できないため、実際には若狭の武装商人が土着したとも、甲斐源氏南部氏の流れであるとも言われており、はっきりしたことはわかっていない。 いずれにせよ、勝山館を拠点とした信広は、15世紀後半から頻発した和人とアイヌの武力衝突の中で和人勢力を糾合する指導者となったことは確かである。
その後、信広の子光広が拠点を徳山館?に移すと、勝山館は重要な支城となり一族が配され、和喜の館と呼ばれた。これは脇が転じたものであるという。 江戸時代以降とされる礎石等があることから、交易管理のための代官所として使われ続けた可能性が高いが、交易の拠点が江差へ移ると代官所も廃されたため、これをもって廃城となったと考えられる。
館跡地は昭和52年(1977年)上之国館跡として近隣の館跡とともに国指定史跡となった。 その後大規模な発掘調査が行われ、交易で運ばれてきたと思われる15世紀後半~16世紀後半にかけての陶磁器や漆器、アイヌが用いる骨角器など様々な遺物が7万点という膨大な数出土し、うち921点が国の重要文化財に指定された。 これは上ノ国一帯が日本海交易において極めて重要な拠点として栄えていたことを如実に表している。 また、跡地は現在公園として整備されており、往時の堀切や柵の跡、井戸など多くの遺構を確認することができる。
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