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元寇防塁 のバックアップ(No.10)
現実の城情報
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| 所在地 | 福岡県福岡市東区箱崎 |
| 現存状態 | 石垣(石塁) |
| 城郭構造 | 防塁 |
石築地の詳細(クリックで表示)
どの担当国も統一して石積みはほぼ垂直とし、下部の石は大きめ、上部の石は小さめに配置してはいるが、九州の諸将に短期間で築かせたためか分担国によって建築方法が異なり線もジグザグとしている。
例えば今津を担当した日向と大隈両国の積方を見てみると、前面・上面・背面すべてに石が使われているが花崗岩を主とした石積みと玄武岩を主とした二つの石塁が確認できる。花崗岩で積まれた方の石塁内部には砂が詰められた。
方や生の松原や箱崎地区は前面のみ石積みで陸地側は自然地形を利用してスロープ状にしている。西新地区は砂丘の上に粘土を敷いて基礎を固め前面・背面を石積み、内部は砂と粘土を交互に重ねた。
また、元の侵入を妨げたのは何も石築地だけではない。箱崎津のある多々良川の河口には乱杭を打って上陸を阻んだ。石築地(石塁)と防杭からなる博多湾の光景は船から見ればかなり異様であったはずだ。
その証拠と言わんばかりか、博多はときに石城、石城府、石城県、石城冷泉津と記されることもあった。石で囲まれた城塞都市と思われたのだろう。
古代に石垣(石塁)が築かれた特異な例だが、役目を終えると風によって砂を被りその姿を消してしまう。再び登場するのは1600年代、元寇防塁は福岡城に転用され一部を残してほぼ失われた。
現在は国の史跡として整備されており、平成28年(2016年)9月には、九州大学箱崎キャンパス内の発掘調査により、元寇防塁とみられる遺構が発見されている。さらに平成29年(2017年)6月26日には元寇防塁の遺構としては初めて溝状遺構の確認が発表された。
攻めてきたのはモンゴル人なのか(クリックで表示)
「元寇はモンゴル帝国のモンゴル人によっておこなわれた侵略行為である」というのが一般に知られている認識である。陸続きであればまだしも、騎馬民族である元に造船技術はほとんどない。
実際に攻めてきた3万4万の兵のほとんどは高麗人の一般兵で形成され、将軍や指揮官級は黒人やアラブ系の民族がおかれた。つまり蒙古族であるモンゴル人は南宋の攻略が最優先でほとんどこの戦争に参加していないのだ。
チンギス・ハーンが1218年に高麗の地に攻め入り進軍を開始した直後、高麗の王朝関係者がソウル近くの島に逃亡したことで無政府状態と化す。
このとき事実上その地を支配したのが三別抄(さんべつしょう)とよばれる軍事組織で、元軍はそれを駆逐し一時撤退した。そのときに約60万人もの高麗人がそのあとをついて、ロシアに近い中国の東部へ移り住んだ。
もちろん高麗との戦争は終わってはおらず、1259年に高麗が国として元に服従するまで戦闘は続いた。高麗が元の一部にされずにその名を残せたのは「自分たちより日本という豊かな国があるからそちらを攻めた方がいい」と進言したためという説がある。
この時点で元の属国として服従した「高麗人」とその前から元について逃亡した「高麗人」の2つが存在し、また元軍は南宋支配で手一杯という複雑な状況下で元寇は開始された。
かわりに軍事費・兵糧・造船・兵力のほとんどを負担し日本への進軍を行なうことになったのは高麗であるから、モンゴル人が攻めてきたというのは表現が正確ではない。
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