「上州の黄班」で知られる長野業正を出した長野氏が、箕輪城に移るまで本城としていた城。 鷹留城を築いたとされるのは長野尚業で、長野氏の菩提寺である長年寺が文亀元年(1501年)に建立されたことから、鷹留城はそれ以前の明応年間(1492~1501年)に築かれたとされる。 城が位置する室田の地は長野氏の本領である長野郷に属し、信州街道や草津街道が通る交通の要衝であり、鷹留城は長野氏の本城として機能した。 箕輪城と同じく榛名山から伸びる尾根上に築かれ、東西約400メートル、南北約350メートルの規模で、北側の本郭と南側の南郭をつなぐように細長い曲輪があり、それぞれが堀で仕切られ、周囲には腰曲輪が設けられていた。 長野氏の本城が箕輪城に移ってからも一族が置かれ、箕輪城とは別城一郭の関係として互いに連携して機能し、数多くあった箕輪城の支城のなかでも最重要の支城だった。
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弘治3年(1557年)から始まる武田信玄による西上野侵攻に対し、業正は箕輪城を中心に鷹留城などの支城網を駆使し、信玄の攻撃を度々撃退した。 しかし永禄4年(1561年)に業正が死去し長野氏の求心力が低下すると、信玄は西上野への侵攻を本格化させ、国峰城・安中城・松井田城・和田城・倉賀野城などの有力支城が次々と信玄の手に落ちていった。 最有力支城だった鷹留城も永禄9年(1566年)5月に落城したことで箕輪城は孤立、同年9月に落城し箕輪長野氏は滅亡した。
鷹留城はその後すぐに廃城となり、長野氏時代の遺構が改変を受けず良好に残っていることから、武田氏・後北条氏・井伊氏によって改修されることになる箕輪城の、初期の構造・立地を考える上で重要な遺構とされる。 また城下の長年寺には長野氏累代の墓があり、右から業尚、憲業、業氏、業正、業固、業茂、業続の五輪塔が並んでいる。
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