上杉謙信の家臣筆頭、七手組大将の一人として活躍した中条藤資の居城で、山麓に居館を構える根小屋式城郭の特徴をもつ。 『吾妻鏡』に建仁元年(1201年)に城資盛が籠城したと記されるのが文献上の初見で、板額御前の活躍でも知られる。 享徳3年(1454年)に中条房資が残した記録には、曾祖父にあたる三浦和田茂資が籠城し、その後享徳2年(1453年)に「其中間一百二年」の期間を経て「再興」したとあり、鳥坂城はその間廃城になっていたと考えられ、あくまで非常時に使用される臨時の城であった。 この房資の記録には子孫に対し鳥坂城を捨てずに維持するよう求める文言もあり、以後鳥坂城は中条氏の本城として位置づけられるようになった。これは常陸国の真壁城などと同じく、戦国時代の領主が恒常的に要害を維持した代表例とされる。
続きをクリックで表示
中条氏は揚北衆三浦党の一つで、鎌倉時代に越後三浦和田氏が奥山荘を三分割した際、胎内川以南の地を譲られ中条氏を名乗った。中条氏は三浦和田氏の惣領家にあたるが、同族の黒川氏とは度々対立し、明応3年(1494年)には定資が討死している。 定資の後を継いだ藤資は上杉謙信に仕え続け、永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いでは謙信から血染めの感状を与えられるなど重用され、家臣筆頭として活躍した。 中条藤資の養子の景泰の代には謙信の後継者争いである御館の乱が起こり、天正6年(1578年)に鳥坂城が黒川氏によって落城したが、上杉景勝方についた景泰は春日山城に詰めていたため、城代の築地資豊が翌年に奪還している。 景泰は天正10年(1582年)に魚津城の戦いで討死し、鳥坂城は築地資豊を後見に景泰の子の三盛が継いだ。 その後慶長3年(1598年)の上杉景勝の会津転封に伴い、鳥坂城は廃城となった。
鳥坂城は三時期にわたる使用が文献によって明らかになる稀有な事例であり、また古代から中世にかけての城郭の変遷を知るうえでも貴重な城となっている。 昭和59年(1984年)には「奥山荘城館遺跡」として国の史跡指定を受け、中条氏の城館は鎌倉時代の坊城館、室町時代の江上館、そして戦国時代の鳥坂城と、三時期の本拠地が全て国指定史跡となっており、全国的にも非常に珍しい。
コメントはありません。 Comments/鳥坂城?
コメントはありません。 Comments/鳥坂城?