諏訪氏や武田氏によって用いられた諏訪地域におけるもう一つの高島城で、日根野氏の高島城と区別して「高嶋城」や「茶臼山城」と呼ばれる。 築城年代は明らかでないが、文明15年(1483年)に上原城の諏訪惣領家と干沢城の諏訪大祝家との間で内紛が起こった際、高島城の記述があることからこの頃には築かれていたとされる。 天文11年(1542年)に武田晴信が諏訪に侵攻すると諏訪惣領家の諏訪頼重は降伏して後に自害し、諏訪地域は武田氏が支配することとなった。諏訪には郡代(郡司)として板垣信方が入り、諏訪氏が居城としていた上原城を諏訪支配の拠点とした。 天文17年(1548年)に信方が上田原の戦いで討死すると代わって長坂光堅が上原城代となり、光堅は諏訪支配の拠点を上原城から諏訪湖に近い岡村に移転させ、諏訪湖東岸の丘である茶臼山に築かれていた高島城を整備した。これが現在「高嶋城」「茶臼山城」と呼ばれる高島城である。
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天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると諏訪地域は河尻秀隆に与えられ、高嶋城には秀隆が派遣した弓削重蔵が入った。やがて本能寺の変が起こると諏訪氏の旧臣が放棄して高嶋城の重蔵を追放し、諏訪頼重の叔父である満隣の子で諏訪大祝だった諏訪頼忠を主君として迎え、諏訪氏は再興された。 頼忠はその後徳川家康に臣従し、家康が関東へ転封となるとこれに従って武蔵に移り、代わって諏訪に入った日根野高吉によって新たな高島城が築かれることになる。
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