奥州南部氏の一族とされる四戸(しのへ)氏の居城と一般的に云われている。 形状は大体南北に連なり、南から上館・中館・下館と空堀で区切られている。 このうち、一番大きい上館に四戸氏、中館に切田氏、下館に金田一氏がそれぞれ居城していたと伝わる。 始まりは、明応2年(1493年)九戸氏が二戸に進出し、これと前後して金田一氏と連携しているので、この頃に築城されたと思われる。 天正19年(1591年)の九戸政實の乱に加わり敗北後、翌年廃城となった。
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と、ここまで書いたが実際のところかなり不明な事が多い。これは金田一氏本家が滅亡してしまった事が大きい。 四戸氏の本地は現代では一戸~九戸まであるうち唯一消滅してしまい不明な事が多かったが、八戸市にある櫛引八幡宮当たりだと推定されている。 その櫛引の地名を苗字にしたのが櫛引四戸氏、そして金田一を領したのが金田一四戸氏である。 金田一の地を領した金田一四戸氏が分家の本家、金田一城に居城していた四戸氏が金田一氏から分かれた、分家の分家ということになる。 徳川家のように本来は松平氏だが家康が徳川を名乗ると、徳川が本家、松平が分家となったのと同じ事である。(家康も本来は松平氏の分家出身)
つまり、この城の上館の位置に四戸城とあるが、実際は正しくない。櫛引の地にあった館が本来の「四戸城(四戸館)」でこの城は「金田一城」が正しい。 「金田一氏」=「四戸氏」であるが「四戸氏」≠「金田一氏」と不可逆性な関係である。例えると「巨乳」=「おっぱい」だが「おっぱい」≠「巨乳」ではない
何故四戸城が前面に出てきたかと言うと、四戸氏の本家櫛引四戸氏が永禄10年(1567年)八戸南部氏と仲たがいし、八戸南部氏と東氏(南部氏の有力一族)に攻められ大きく勢力を落とす。 金田一四戸氏も天正19年の九戸政實の乱に加わり滅びてしまう。この時、櫛引四戸氏も滅亡。唯一生き延びたのが、乱時出羽に逃れ後に帰参した分家の分家である四戸氏だけであった。 この分家の分家の四戸氏が後に本家を詐称名乗ったため、金田一城が四戸城となり、四戸という地名も消えた一因となった。
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