加賀藩主前田利長が隠居後に築いた晩年の居城。当初利長は富山城を隠居城としたが、慶長14年(1609年)3月に富山城が焼失したため、一時魚津城に移った後、同年9月に射水郡関野に築城し地名を高岡と改めた。 越中高岡城の縄張は豊臣秀吉が築いた聚楽第の影響を受けた、いわゆる聚楽第型城郭と呼ばれるものであり、本丸を中心に北・東・南側に馬出郭を設け、これらの郭を土橋でつないで二重に重ねて防御する、極めて防御性の高い構造となっていた。 隠居城として用いられたのは短期間で、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となったが、その後も長らく維持された。
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