漢初に初めて名が現れる。後漢末には荊州の治所がここに定められた。 そのため後漢末から続く戦乱の時代には各地の群雄から軍事・政治的な要地とみなされ、争いが繰り広げられた。 孫堅はAC191年に劉表との間に起こった襄陽の戦いで戦死する。 その後も各時代における重要都市として発展を続ける。 AC1267年から5年間にわたって行われた南宋と元による襄陽・樊城の戦いの舞台ともなった。 元は水陸合わせて17万とも言われる大軍勢を揃えていた。 そして襄陽の周囲を封鎖する大規模な土木工事を行って兵糧攻めを狙い、長期戦を戦った。 AC1273年、最後の駄目押しとして元軍総司令官のフビライ・ハンは回回砲の実戦投入を決定。 100以上の回回砲が遠間から巨弾を飛ばして城壁を易々と破壊していった。 南宋軍は兵糧も尽きかけ、援軍も期待できなかった。 イスラム教徒の技術を使った攻撃に全くなす術のなくなった守備側は同じ月の2月に降伏し、落城した。