法林寺集落の三つの山は東の城、中の城、西の城と呼ばれ、祐向山城の位置は諸説あり真偽は不明。 鎌倉時代に築かれたとされ、弘安年間頃には、藤崎行長の次男で美濃国守護代の藤崎泰綱が城主だったとされる。 戦国時代には斎藤家の家臣・長井利安が居城とし、また斎藤道三も一時は拠点とした。道三の孫・斎藤龍興は永禄7年(1564年)に稲葉山城を一時退去し、この際に祐向山城を経て揖斐城に移ったという。 永禄10年(1568年)、織田信長の美濃侵攻に伴って祐向山城は滅ぼされ、廃城になった。
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