猿喰城 のバックアップ(No.1)
猿喰城(さるはみじょう) 門司区のほぼ中央、大字猿喰・大字柳・大字中畑の字境、標高210メートル城山に陣取っている。 【猿喰城の縄張り】 かえして、同じく北九州市出身の廣崎篤夫氏は著書『福岡県の城』にて猿喰城と柳城を別の城として紹介している。場所が近しいゆえに真実がどうであったかを導き出すのは難しいと言える。 【門司地域における合戦】 貞治元年、親尚手の者は規矩郡に菊池肥後守武光手の者など数百人城を構えて立て籠ったとき、それらの城を攻撃しもうすぐ攻略するところであったが、武家方であった周防国大内弘世(ひろよ)が突然宮方として関門海峡を渡って攻めかかってきた。 貞治二年七月十九日午前零時、門司関城に取り上り合戦の準備に取り掛かったところ、書房備が整わない同月二十一日に、菊池氏の代官・鞍懸中務丞(くらかけなかつかさのじょう)や下総若狭守親頼、同庶子らが攻め寄せてきた。散々合戦になり、攻めてきた宮方は数人が負傷し引き退いた。親尚は一族の下総親資とともに門司関城に踏みとどまっていたところ、今度は弘世が武家方として関門海峡を渡って赤坂(小倉北区)に陣取ったので、親頼、同庶子ら宮方が立て籠もる猿喰城に攻撃を開始した。 ところが、思いもよらず弘世は赤坂より陣を退き上げ、そのまま長門へと帰ってしまった。しかたなく宗像御大将、少弐冬資(しょうにふゆすけ)らも赤間関へと退却した。にも拘らず親尚はなおも門司関城に踏みとどまっていた。
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