湯村山城(ゆむらやまじょう)は躑躅ヶ崎館の西方の守りのために築かれた山城である。湯ノ島山城とも呼ばれていた。 武田信虎は甲斐守護武田宗家の統一に成功すると、国人衆や今川氏など周辺の勢力とも対峙しながら甲斐国内の統治を進め、永正16年(1519年)に拠点を躑躅ヶ崎館に移した。 躑躅ヶ崎館は三方を山塊に囲まれた平地に位置し、周辺の山域に要害山城を代表とする城郭を築くこどで守りを固めた。 その1つとして、大永3年(1523年)に館から西の湯村山に見張りの城を築いたことが高白斎記に確認できる。これが当城である。 城域は湯村山の頂上付近と比較的小規模であり、昔は烽火台が設置されている程度の簡素なものであると考えられていた。 しかし発掘調査により、頂上付近において土塁や堀切が多数発見され、小規模ながらも土塁と堀切で曲輪を形成した本格的な山城として整備されていたことが判明した。
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