古河公方の重臣である野田氏の居城で、北条氏による北関東攻略の拠点にもなった城。 古河城の支城として、同じく古河公方の重臣である関宿城の西、水海城の南西に位置し、利根川水運を押さえる要衝の城として機能した。 『利根川図志』では権現堂川を挟んだ西側の対岸にも大島という地名で「ともに城山といふ」と記されているが、元和7年(1621年)の改修工事で権現堂川が城跡を分断するようになり、現在は西側の遺構は失われている。 東側は本曲輪が民家が建っていることで遺構を見ることができないものの、法宣寺の裏にある枡形虎口や「七曲り」と呼ばれる巨大なクランク状の堀、南北に伸びる外郭の堀や内郭の土塁などが比較的良好に残っている。
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古河公方の文書によると天文23年(1554年)、野田左衛門大夫に下総下河辺庄の向五郷と栗橋など39郷の知行を安堵するとあり、また弘治3年(1557年)には古河公方足利義氏の安堵状では野田氏の本領として古河・野田・高橋・河辺の16郷が安堵されている。 野田氏は鎌倉府の奉公衆時代から古河周辺を本領としていたと考えられ、戦国時代の公方御料所の書状からも永禄11年(1568年)までは古河から栗橋一帯を所領としていたとされる。 永禄11年(1568年)は滝山城主の北条氏照が栗橋城を支配するようになった年であり、氏照は栗橋城を北関東攻略の拠点として栗橋衆と呼ばれる城番を置いた。同年の第二次関宿合戦では氏照は栗橋城を拠点に関宿城を攻撃しており、また同年10月には野田氏が古河城の頼政口へ移されたという書状がある。 その後も栗橋城は北条氏による北関東支配の拠点として機能し、天正18年(1590年)の小田原征伐後に廃城となった。
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