1978年、「縄文晩期の水田発見―『稲作は弥生時代から』の定説を覆す」「『稲作は縄文終末期から』に物証」と新聞で大きく取り上げられ、考古学上重要な遺跡となった。 環濠集落が形成られる以前より板付遺跡北台地を拠点とし、徐々にその集落規模を拡大、濠を巡らせる環濠集落へと成長した。 突帯文土器単純期(メディアは縄文晩期としている)にあたる弥生早期の時代に水田で栽培されたとされる炭化米が出土する。その他、杭や堰き止め用の矢板、農耕具、甕棺や包丁なども出土している。 本当に稲かの検査にはプラントオパール分析や花粉分析、種子分析が実施された。コナギ、コゴメガヤツリ、ノシノフスマなど水田雑草が次々と検出され、間違いなく水稲農耕があったことを証明した。
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防衛用の濠が巡らされたのは中央台地を主要拠点にしてからである。南北に沿い縦に延びた弦状濠、その周囲に卵型の円を描くように巡らされた環状濠、西側の環状濠の弧を遮断するように掘られた東西濠がある。 濠を掘削した際にでる土は濠際の土塁に使用されたと考えられ、もしそうであればかなりの規模と深さを持つ濠が生まれたことになるだろう。その姿は中世の城郭のそれを思わせる。 ただ、弥生中期になると濠は姿を消してしまう。環濠内から中期の土器の一切が出土しなかったことを根拠に環濠埋没説が主流となった。
また、物体としての出土ではないが、遺跡から無数の弥生人と思わしき足跡が発見された。 福岡県警鑑識課の協力のもと、足跡から身長は164センチメートル前後と当時の背丈まで分かってきた。
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