小丸山城は御祓川河口近くにある小高い丘を利用して築かれた梯郭式平山城である。 小丸山を中心に周辺の丘陵全体を城域とし、小丸山を本丸、その西の天性丸、北西の宮丸、南の大念寺山という構成であったとされる。 北は海岸、東西は御祓川とその分流に挟まれており、これらを天然の水堀として利用し、主に北西側に寺院を配置することで野戦陣地を確保するなど、まだ能登統治が不安定であったことから守備も意識したつくりになっている。 能登畠山氏の時代を通じて能登の中心は七尾城であったが山城の性質が強く、七尾港など経済の中心地からも遠いと難点も多かった。 天正9年(1581年)能登国一国を有することになった前田利家は最初七尾城に入ったものの上述の難点から、統治に便利な城を求め、翌天正10年(1582年)七尾港を見下ろす丘陵に当城を築いた。
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前田利家は翌年天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの功で佐久間盛政が有していた加賀国の二郡を得たことから、金沢城を尾山城を改称しこれに移ったため、本城であったのは1年足らずの短い期間であった。 以降は七尾城代であった利家の兄安勝が城主となり、その子利好、利家の三男知好と代を経たが、元和元年(1615年)一国一城令によって廃城となった。
跡地は大念寺山を除き小丸山城址公園として整備されており、櫓台跡や本丸と天性丸の間の空堀跡などが残っている。 一方、南の大念寺山は七尾線の工事や御祓川の工事などで大きく改変を受けた上に残った領域も宅地化しているなど、城跡と感じさせるものはほとんど残っていない。
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