揚北衆の一つである鮎川氏の居城。鮎川氏は同じく小泉荘を領した本庄氏の一族とされ、本庄氏とは度々対立した。 大葉沢城には本庄氏の居城である越後本庄城と類似した大規模な連続竪堀が見られ、特に越後本庄城の方角である南側斜面には50以上もの竪堀が設けられ、本庄氏に対し徹底的に守りを固めている。 鮎川清長は天文8年(1539年)に越後本庄城を攻めて本庄房長を出羽に敗走させたが、永禄11年(1568年)に本庄繁長が上杉謙信に叛いた際には繁長によって大葉沢城を落とされた。 謙信死後の御館の乱では繁長が景勝方、清長の子盛長は景虎方につき敗れたが、後に許され帰参した。 盛長は新発田重家の乱では中立を保ち、大葉沢城は慶長3年(1598年)の景勝の会津転封に伴い廃城となった
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