西国の雄大内氏の居館。大内氏は百済聖明王の第三子琳聖太子の末裔を称し、12世紀には周防権介を世襲した在庁官人であり、鎌倉時代には周防の国衙で要職を務め、御家人として六波羅評定衆にもなった名門。 大内氏は弘世の代で山口に本拠を移し、大内氏館が築かれたとされる。居館は躑躅ヶ崎館や朝倉氏館などと同じく、足利将軍邸である花の御所を模した方形館で、いわゆる「花の御所体制」の代表例と評される。 大内氏は弘世の子である義弘の代で六ヶ国の守護を兼ねる大大名となり、大内氏館も改修が繰り返された。その後一時衰退するものの義隆の代には七ヶ国の守護を兼ね、さらに明や朝鮮との交易を進め、山口は西の京として大内文化が栄えた。 しかし天文20年(1551年)、義隆は陶隆房の謀反に遭って自害、新たに当主に据えられた義長も弘治3年(1557年)に毛利元就に滅ぼされ、大内氏館は廃された。その後城館跡には毛利氏によって龍福寺が建てられた。
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