今川義元の死後独立した徳川家康の遠州侵攻に備え、永禄11年(1568年)に今川氏方の土豪、尾藤主膳・斎藤為吉・竹田右京・山村修理らが形部城とともに築いた。 豪商・瀬戸方久は今川氏真に取り入って両城の軍事調達を請け負う代わりに自身の領地を井伊谷徳政の対象外とする安堵状を得たとされる。方久は新田義貞の一族で、新田四郎と名を変えて、堀川城主になったともいう。 しかし、家康は小野道好(俗に政次)に井伊谷城を奪われた井伊直虎に加担し味方につけると、井伊谷三人衆を道案内として刑部城を攻め落とし、永禄12年(1569年)3月には堀川城も攻め落とした。 このとき堀川城は老若男女2000人が立て籠っていたが、約1000人が撫で斬りにされ、残った人々約700人も悉く首を打たれて都田川の堤に晒されたというが、死者数については懐疑的な見方も多い。 また、城将・尾藤主膳らも討ち死に、あるいは自害したという。(堀川一揆、あるいは気賀一揆) 一方で、新田四郎は出家し「新田友作入道喜斎」と号していたが、慶長11年(1606年)に気賀の地頭への訴えのため処刑され、龍潭寺に葬られた。
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