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城郭都市ヨーク のバックアップ(No.1)
現実の城情報
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| 所在地 | イングランド、ノース・ヨークシャー、シティ・オブ・ヨーク |
| 現存状態 | ほぼ現存 |
| 城郭構造 | 城郭都市 |
城郭構造(クリックで表示)
城壁自体は多くの場所で土塁の上に建っていて、盛土も入れると高さは3メートルから5メートルほど。
ローマ時代の城壁は平地に建てられていて土塁はなかったのだが後から追加され、当時の城壁は半分ほど土中に埋まっている。
厚さも門周辺以外はそこまで厚くはなく、城壁上の通路はすれ違うのがやっと。城壁外側にさらに堀があったが現在では大半の場所で残っていない。
ローマ時代から残る北側の城壁の要所には4世紀初頭に建造された多角形城壁塔が残っている。
絶えず補修が続けられていたが、アングロサクソンおよびデーン人時代の補修はやや雑であるらしく、当時とローマ時代との技術力の差がわかる。
ヨークでは城門塔をバー(Bar)と呼んでいる。これはノース語での呼び方に由来していて、デーン人統治時代の名残である。
現存する主要なバーはすべて14世紀までに完成したもので、ミックルゲイト・バー、ブーザン・バー、モンク・バー、ウォルムゲイト・バーの四つ。
そのほかいくつかの小城門(Minor Bar)が存在する。現在バーはどれも比較的単純な門塔になっているが、かつては外側に擁壁を備えていた。
中でもロンドンからの街道が町に入るミックルゲイト・バーは最重要視され、同時に反逆者の首が晒される場所でもあった。前述のヨーク公一派のほか、15世紀初めにはアニック城主の息子“ホットスパー”ヘンリー・パーシー、その子孫*3でエリザベス1世の宗教改革に異を唱えた16世紀のノーサンバランド伯トマス・パーシーも晒し首となった。
城壁は現在も一部を除いてほぼ完全に残っており、城壁上は遊歩道となっている。道や川で分断されている部分以外は上を歩いて市街を一周できる。
城壁はフォス川の両岸部分で不自然にも見える形で途切れているが、これはこの場所が昔は沼地で城壁を築く必要がなかったためである。なお、この沼地は後述のヨーク城のためにフォス川をせき止めたことでできたもの。
ヨーク城(クリックで表示)
南側、二つの川が合流する突端に近い部分にヨーク城がある。ウィリアム1世による制圧ののち典型的なモットアンドベイリー方式で築かれた。
同時にウーズ川の対岸西側にもほぼ同じ規模・同じ構造の城を建て、相互に支援できるようにした。どちらの城も城壁や建物は木造だった。
しかし西側の城はその後城としては使われなくなり石造城砦にも更新されず、のちに市城壁に吸収された。現在もその状態で残っている。
現在のヨーク城である東岸側の城は1190年に火災で燃え落ち、迫害を避けて城内に逃れていた150人以上のユダヤ人が焼死した*4。
その後、1245年から1270年にかけて再建され、この時に石造化され木造時代の建物跡地にシェルキープが造られた。
現在もモット上に立つ主城塔クリフォード・タワーがそれで、四つの円塔を組み合わせた四葉のクローバーのような形の独特な平面形を持つ。
すでに囲郭式城郭が主流になっていた13世紀当時の時期にこの形式のキープを新造するのは珍しいことだった。
3メートルに達する分厚い壁と縦横24メートルの幅を持つどっしりとした建物で、フランスのエタンプ城を模倣したデザインであるとされる。
ちなみにクリフォード塔の名は14世紀にエドワード2世王に反旗を翻したが破れ、城内で処刑されたロジャー・クリフォードから来ている。
のちに市街地を囲む城壁が南部まで延伸されてくるとその南の防衛拠点として城壁に組み込まれ、イングランド内戦でも使われた。
かつては川から水を引き込んだ水濠で防御されていて、主郭部分のモットだけでなく外側郭のベイリーさえ水濠と川に囲まれる立地の水城だった。現在はどちらの堀も埋められている。城内には二つの博物館が設けられ、古代から近代までのヨークの歴史を学ぶことができる。
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