吉崎御坊(吉崎道場)は本願寺第8世法主蓮如により、文明3年(1471年)に北陸の拠点として建立された。 越前と加賀の国境であり、三方を北潟湖に囲まれた海抜約33メートルの吉崎山に位置する。 船による参詣もあった程の水運の要であり、周囲も土塁が巡らされていたとされ勢力拡大に伴い寺内町が形成され要害化していった。 その造営は後の山科本願寺や石山御坊へと繋がっており、また北陸に一大領国を形成する礎であった。 朝倉宗滴率いる朝倉軍が永正3年(1506年)九頭竜川の戦いで一揆勢を打ち破った後吉崎御坊を破却し、廃坊になる。
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比叡山との対立から寛正6年(1465年)大谷本願寺を破却され、蓮如は畿内を転々とした後、 縁戚の地であり、また守護勢力の圧力を受けにくい地でもあることから吉崎の地に移る。 急激な勢力拡大に守護との軋轢が生まれることを危惧して「御文」により参詣を制限するも収まらず、 応仁の乱の最中、加賀守護の富樫氏内部の家督争いと本願寺派と真宗高田派の対立が絡み合い、一揆衆が抗争に参戦した。 ここから、後の「加賀の一向一揆」が勃発することとなる。
加担した富樫政親が勝利したものの後に対立、その戦乱により吉崎御坊は焼失、蓮如は船により畿内へ退去し山科本願寺の造営を開始する。
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