足利氏の一門であり室町幕府の四職筆頭として勢力を誇った一色氏の居城。 今熊野城が築かれた丹後府中は阿蘇海を挟んで日本三景の一つである天橋立を望む風光明媚の地であり、今熊野城が立地する今熊野山は阿蘇海に最も接近した山であり、南北約400メートルの尾根筋に曲輪を並べた典型的な連郭式山城だった。 丹後府中には古代から中世にかけて国衙・国分寺などが集まり、成相寺の門前町も融合した中世都市だった。さらに15世紀末に丹後守護一色義直が下向すると丹後府中には守護所の機能も加わり、丹後でも随一の政治都市となる。 今熊野城が機能し始めた15世紀末から16世紀初頭に雪舟が描いた『天橋立図』には、丹後府中の寺院だけでなく守護やその被官の居館も描かれており、今熊野城周辺に成相寺の参道が通っていた様子もうかがえる。 また16世紀に描かれたとされる『成相寺参詣曼荼羅』にも狭間を持った築地と櫓門を備えた建物が描かれ、丹後府中の景観のなかで城が意識されていたことがわかる。
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一色氏は一色義有の代の永正3年(1506年)6月、室町幕府管領の細川政元の支援を得た若狭守護武田元信による丹後侵攻を受けた。宮津などで一色氏を破った武田・細川連合軍は丹後府中に迫り、この時丹後守護である義有は今熊野城に、丹後守護代の延永春信は阿弥陀峰城に籠城した。 阿弥陀峰城は今熊野城のすぐ後ろに築かれた城であり、この両城は同時期に守護と守護代が別個に籠城した珍しい事例となっている。 翌年になって京で政元が暗殺されたことにより武田・細川連合軍は撤退し、一色氏は丹後府中を守り抜いた。しかし永正14年(1517年)に再び武田氏の攻撃を受けて一色氏は敗れ、その後丹後は武田氏の影響下に置かれていく。 もっとも、天文7年(1538年)の『丹後国御檀家帳』によると、丹後府中には一色氏の当主と延永氏が滞在しており、少なくとも16世紀半ばまでは守護所として機能していた。 永禄12年(1569年)の丹後の様相を書いた里村紹巴の『天橋立紀行』では、一色氏は丹後府中の西、今熊野城と同じ阿蘇海沿岸の弓木城に拠点を移していた。このことから、一色氏は16世紀後半には今熊野城から弓木城へと本拠を移していたと思われる。
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