応永年間(1394~1428年)に駿河国守護今川氏の家臣である斎藤安元が築き、永禄11年(1568年)の武田信玄の駿河侵攻の際には山県昌景が置かれた。徳川家康の駿河進出後は徳川氏が支配し、天正18年(1590年)に廃城となった。 丸子城は武田氏時代に大規模な改修を受け、東西端に設けられた丸馬出と三日月堀は武田氏の築城技術をよく表すとされる。 角曲輪は一列に配され、その西側は長大な横堀と土塁がめぐり、堀切と竪堀によって巧みに防御されている。さらに南西の丸馬出の北西斜面には総延長100メートル以上の竪堀が設けられ、尾根を完全に遮断している。 これらの遺構は現在も極めて良好な状態で残されており、戦国期山城の特徴がよく残されている。 丸子城は丸馬出や三日月堀、横堀の配置などの特徴から武田氏の山城の水準の高さを示す好例と考えられてきたが、近年の静岡県での発掘調査から、それらの特徴は徳川氏にも見られることも明らかになってきており、今後の研究が期待される。
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